MT免許、10年後に華麗にデビュー

役に立たなくても面白いこと 充実  生き方
通勤の相棒はAT車です

資格や免許、あるいは知識、経験。
何のために使う(役立てる)か、その目的が明確なこともあれば、
思いがけずに役に立つものも、たまにありますよね。

ペーパードライバーから軽トラドライバーへ

私が自動車の運転免許をとったのが、19歳の夏。
MT車の免許をとりました。なぜか。
家にあった車がマニュアル車だったから?否。
そもそも、家に車はなかった。
私が生まれて20年以上、自家用車はありませんでした。
生活の足は、自転車、電車、バス。
東京の西の方でしたが、特に困らなかったです。

そんな私が、なぜMT免許を取ったのか。
なんか、かっこいいなーと思ったんです。
運転するときに、左手でギアチェンジをするあの動作。
バスに乗ったとき、運転席の近くで見ていた光景。
かくかくとこまめにシフトチェンジをする動作=車の運転でした。
あれがしたいな、と。

教習で覚えていることといえば、MT車の運転技術のことではなく、
車の常識的な使い方がわからなかった、ということ。
信じられない話かもしれませんが、
ドアロックの仕方とか、窓の開け方とか、トランクの開け方とか、
運転以外の部分で、知らないことが多すぎました。
(どこを押すんだ?くるくる回すんじゃないのか??)
自家用車があって、親が運転するところを子どものころから見ていれば
知っているはずのことを、知らなかったです。
変なところで、車って難しい、と思ったものです。

MT車の教習そのものの記憶があまりなく、そこは省略。

夏の終わりに、念願の免許取得。しかし、家に車なし。
めでたくペーパードライバー生活となるわけです。
免許は、身分証明書として活躍してくれました。

東京で暮らしていたら、車を持つと維持費が高いし、公共交通機関の方が
慣れているし、このまま私は一生ペーパードライバーかなと思っていました。
(ちなみに両親はしばらくして車を買い、ペーパードライバーを卒業していた)

ところが、人生はなにが起こるかわからない。
免許を取った10年後、岡山県北の地域に引っ越すわけです。
当然ながら、車がないと不便な場所です。
しかも、農業にも関わるため、軽トラも必須。

私の運転免許が、ついに役に立つときがきた!
私の身分証明書こと自動車運転免許証が、神々しく輝いて見えました。
(ゴールド免許だったからかもしれません)

昔取った杵柄。昔取ったMT免許。
もちろん、ペーパードライバーだったので、
友人に助手席に持ってもらい、練習をしました。
まずは、乗用車(AT)で。続いて、MTの軽トラで。
友人が命がけ?で乗ってくれたことに、感謝しています。

そんなわけで、10年超の時を経て、私の持っているMT車免許が、
日の目を見ることになったわけです。
ペーパードライバーから、軽トラドライバーへの華麗なる転身。

教習所に通っていた時は、よもや岡山の農道を軽トラで走り、
また毎日自動車通勤をすることになるとは、まったく、これっぽっちも、
1ミリも、想像していませんでした。ただ、かっこいいなーでとった免許です。

「なんかかっこいいなーで、免許をとっておいてくれて、ありがとう!」
19歳の私にお礼を言いました。

目的がなくても、いいじゃないか

いまではしたり顔で”自己投資”なんて言葉を私は使っているわけですが、
10年、20年前、そんな概念はなく生きていました。
自分の価値を高めるとか、スキルアップとか、そんな余裕もなかった
ということもあります。
ぶらぶら、ふらふら、定職に就かずにいた時間。
心配や、迷惑もかけていました。
時間も、お金も、消費・浪費していたかと思います。

車に乗ることが必須ではないけれど、免許でもとっとくか~。
時間だけはあったので、週に2,3回、映画の試写会に通っていた数年。
(とにかく、映画と名の付くものであればなんでも観ていた)
片っ端から図書館で小説を借りてきて読み続けていたこと。
好きなミュージシャンのツアーを追い、夜行バスを駆使して地方遠征したこと。
演劇にはまり、小劇場に通っていたこと(まさか後に自分が演劇をするとは思わず)。

自己投資でもなく、自己研鑽でもなく、就職のためでもなく、スキルアップ
でもなく、ただそのとき好き、面白い、と、ときには暇つぶしで、没頭して
いたことがたくさんあります。
今回の免許証のように、具体的に何かに役に立ったものもあれば、そうでない
ものもあります。まだ人生は終わっていないので、これから先わかるものも
あるでしょう。

でも、人はそもそも何かに役に立てるため”だけ”に生きているわけではない、
と思います。
明確な目的を持った行動自体は良いことで、私も○○に必要だから、という
学びをすることは当然あります。
役に立てるために何かを頑張る、それ自体に喜びや楽しみがあれば、良いです。
でも、その頑張りが、ひたすら我慢をしている時間であればどうだろうか。
幸せや喜びを先延ばしにして、今耐えている。
私の経験で、そういう将来のために今無理して頑張ることが、
自分を追い詰めたり苦しめてきたなと思います。

その先延ばしにした「幸せな未来」は延々と来なくて、次から次へと
未来のために耐えるべきことが目の前にあらわれるのです。
今も、そういう考えで行動してしまうことがあり、生き方の癖は怖いな
と思います。

今日、充実していたか

私は、資格試験の勉強をしてきました。それは明確な目的があるものです。
簿記はただ面白いからでしたが、税理士試験は、税理士になるための勉強でした。

勉強の時間が、ただただ、苦行のように耐えて我慢していた時間だったかというと、
そんなことはないです。受験生活そのものが、ひとつの面白いドラマとして存在
しています。
伸び悩み、苦しい、きつい、厳しい、と気持ち的に追い込まれることもありました。
でも、役に立たなければ(合格しなければ)なんの意味もない、
合格するまでは本番じゃない、というような思いはまったくなかったです。
成果や結果を出すためにやっているけれど、それ自体にも大きな意味があり、
毎日、満たされている。そう感じながら勉強をしていました。
きれいごとに聞こえるかもしれないけれど。

究極的には、役に立つも立たないも、死ぬ間際じゃないとわからん、と。
そして、これは役に立つからする、立たないからしない。という指標だけで
物事を選択していたら、人生に潤いがなくなってつまらん、と。

「これは役に立つから覚えないといけない」
「使うからできるようにならないと」
というものは、生きていたらある程度は向こうから勝手にやってきます。

なので、自分で選択できることに関しては、どっちか考えず、直感や、
心が動いたものに向かっていきたいですね。

【編集後記】
宣言により、昨日の睡眠時間7時間30分。
ちょっと寝過ごしました。
睡眠時間が安定してきたら、朝ランをしたい。

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