日記を書く習慣が15年以上続いています。
365日毎日書きたいところですが、ここ数年は書く頻度は不定期です。
(毎日ではなくとも、日記と呼ばせてください)
言葉にすることの大切さと、その効果について。
事実の記録=事実を記憶
日記には、まずその日にあった事実を書きます。
物語的に一日のハイライトに絞って書くことが多いですが、
備忘録としてあったことを箇条書きにする日もあります。
記憶というのは、面白いくらいするりするりと零れ落ちていきます。
事実の前後が入れ替わり、上が下になり、果ては事実そのものが消えていく。
仕事の記録もそうですが、自分の記憶ほどあてにならないものはありません。
書くことで、ようやく事実が事実として残るように思います。
そして、事実は時間がたつとそれ自体が面白い読み物になります。
書いているときは、ただの事実(記録)ですが、記憶が薄れ(あるいは消え)た
ときに読み返すと、自分が体験したことのはずなのに、小説(フィクション)かの
ような感覚で読めます。主人公の気持ちに誰よりも感情移入して読める小説です。
なにしろ、自分=主人公なので。
感情の記録=感情を記憶
喜怒哀楽。
日々感情がどれだけ大きく動いても、言葉にしなければ感じなかったも同然。
事実と同じように、感情もまた言葉により「確定」「記録」されないと、自分が
感じた気持ちが消えていってしまいます。私はそのように思います。
出来事を思い出せば、ああ、あのとき悲しかったな、とか、感動したな、
ということは思い出せます。
しかし、それは情緒と呼ぶにはあまりにも薄いものです。
具体的にどのような悲しみで、どのように心を動かしたか、その深さや色合いは
言葉にしなければ残らないように思います。
言葉にして書く(話すでもいいですが、書くほうが効果がある)。
それもなるべく深く濃く、自分の言葉で書く。
楽しいことを、「楽しい」という言葉を使わずに表現する。
悲しいことを、「悲しい」という言葉を使わずに表現する。
そうして自分だけの感情を自分の言葉として刻むことで、たとえ後でその文章を
読み返さなくても、自分の心にしっかりと残ります。
感情のひだとして、情緒として。
何もないと思った日でも、日記を書くと案外心が動いているのだとわかります。
書かないと、本当に何もなかった一日で終わり、感情も動いていなかったこと
になってしまいます。
自分の情緒を育てるには、なんでもないようなほんの小さな心の機微を
確かに感じていくことが大切だと思います。
ほんの小さな機微を確かめていくことは、日常に幸せを感じることでもあります。
日記に未来を書く=意識と無意識の変化
演劇をするとき、自分とかけ離れた役であっても、演じることでその役の
感情や、価値観が自分の地となるように思います。
私にとっての演劇とは、そういうものです。
今の自分を捨ててまったく別の自分を作るというよりは(そういうこともありますが)、
人としての深みや振れ幅を大きくしていく、というイメージです。
日記においても、その効用はあります。
まだ実現したいないことも、現実との乖離がある自分像でも、書いてみる。
未来のこと・目標・志。
具体的なことも抽象的なことも。
短期的なことも長期的なことも。
書くことで雲をつかむような夢物語から、自分の明確な夢(目標)へと変わって
いくように思います。さすがに、書いたら必ず叶います!とは言えませんが、
少なくとも実感のある進むべき「未来」にはなると感じます。
そして書いたからには実行せねばと自分の行動につながります。
人に公開しない日記でも、その効果はあるように感じます。
明日から朝活で5時に起きて勉強する!といった具体的かつ誰が見てもわかる
行動ではなくとも、知らず知らずのうちに日常の行動や発言を少しずつ
変えていく効果があるのではないかと思います。
意識的に行動を変えるのではなく、無意識の部分で自分に変化をもたらし、
それは確実に自分を成長させるものになるのかなと。
3度美味しい日記。きっと、3度以上美味しい日記。
これからも日記を続けていきます。ブログも、続けていきます。
【編集後記】
4月申告の送信準備。資料のまとめ。
今日はおやつが充実。
差し入れのクリームたっぷりロールケーキ。
プリッツやきもろこし味(はまりそう)。