第二の自分軸を頼る

隣の芝生が青く見えたとき 自分軸 信頼する人の意見を頼る メンタル
庭の雑草は、青々とする前に刈りたい……

隣の芝生は青い?芝の青さを正しく見定めるのは、なかなか難しいです。
自分の目にフィルターがかかっているとなおさら。
そういうときは、自分の目ではなく信頼している人の目を信じます。

離れると、青さに気づく?その青さは本物か

なにかを手放した途端、それが価値のあるものに思えてしまうこと
があります。自分の意志で手放したはずなのに。
とても欲深いなあと我ながら恥ずかしいのですが。

それは自分にとって価値のある大事にすべきものだったのか?
はたまた隣の芝生は青く見える、という現象なのか。

どちらの場合もあるかと思いますが、ここでは後者について考えてみます。
つまり、自分の価値観や生き方において必要のないものだ、と判断して
手放したときの感じ方が自分にとって本物(本心)だというパターンです。
離れたところから見えた芝の青さは、ニセモノです。

不安というフィルター

断捨離ではないけれど、何かを手放して身軽になるというのは、
ある面ではすっきりと心が自由になります。
しかし同時に、不安にもなります。
何かを所有している、あるいはどこかに所属している、肩書がある、
ということは、縛りでもあり安心でもあります。
それを手放した時の、晴れ晴れとした不安(変な表現ですが)は、
隣の芝を実物以上に青々と良く見せることがあるのかなと思います。

縛られていると、窮屈だけれど暴風雨でどこかに飛ばされる心配はない。
縛られていなければ、のびのびといられるけれど、場合によっては
ひとたまりもなく飛ばされてしまうかも。

どちらから見ても、あっちの方が良かったのでは、と思えてしまう。
そして、思いつめるほどに、正しい判断軸はぶれていき、
フィルターは濃くなります。

そういうときは、不安を良いこととして信じます。
不安なのは、自分が人から守られたところから一歩でた証。
もちろん、吹き飛ばされては大変なので、そうならない技術や力、あるいは
つながり(縛りではなく)を作っていくことは必要です。

自分軸がぶれたら、人の軸を頼ってもいい

世間の評価や価値観ではなく、自分軸で生きる、判断する。
ということはもちろん大切です。
私は、「自分軸」には自分が「信頼する人の軸」も含まれていると思います。
人生のすべてにおいて、たった一人で、自分だけで決める必要はなく、
どうにも、正しい判断ができなくなったとき、迷ったときは、
身近な信頼する人に相談して意見を聞いてみます。
その人の意見は、顔の見えない「世間一般」ではありません。

自分の判断が鈍った時こそ、第二の自分軸、信頼している人に頼ります。
堂々と、頼ります。
混乱してフィルターがかかっている自分よりも、よっぽど本来の「自分軸」
による判断ができるように思います。
これまでの経験を振り返ってみても、信頼しているひとの意見に救われたな、
方向を正してもらったな、ということがたくさんあります。

自分の目を信じる、大切な人の目を信じる。
そして、現時点でもし本当に隣の芝生が青くても、自分のいる芝をせっせと
育て、青々とさせていきます。

 

【編集後記】
畑や庭は、雑草との追いかけっこのシーズンですね。
いつの間に?というくらいわさわさと茂ってきました。
今日は相続の打ち合わせ準備。月次処理。

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