「石橋を叩いて渡る」
どんなに頑丈そうな橋でも、用心深くチェックしてから渡りなさい、という教訓。
素晴らしい。私もその精神でありたいと思っています。
何しろ、私は叩いて、叩いて、さらに叩いて、
橋のたもとでずーっと「うーん、大丈夫かな?」と悩んでいるタイプなので。
せっかく目の前に橋があっても、渡る決心がつかないままでは、
そのチャンスはスルリと手からこぼれ落ちてしまう……
橋は老朽化する
とある人にとある相談をしたら、こんなことを言われました。
「橋を叩いて叩いて、いつまでも渡らないタイプだね。失敗を恐れず、決断する覚悟が必要だ」
耳が痛い。私は、この決断が正しいかどうかで堂々巡りしていたからです。
「これが正しい選択なのだろうか?」
「間違った決断をして失敗したらどうしよう?」
そんな思いがぐるぐると頭の中を回り続けて、結局何も決められずにいる。
石橋を叩くのは良いことです。
でも私の場合、叩いて、叩いて、叩き続けて…
気がついたら橋が老朽化で崩れ落ちているパターン。
慎重というより、ただの優柔不断なのです。
結局、その橋が安全だったかどうかもわからないまま、
橋を渡るチャンスそのものを失ってしまうのです。
では、なぜそんなにも慎重に(優柔不断に)なってしまうのか。
それは、私の「これが人生最後のチャンス」という思い込みです。
「もう、終わり~だね恐怖症」の正体
私が決断を恐れる理由のもう一つは、「失敗したらもう終わり」という恐怖でした。
目の前に現れる選択肢。迫られる決断。なにが正解なんだろう?
「もし失敗したら、ゲームオーバーになっちゃうかも…」
でも、人生における「ゲームオーバー」って、そんなに頻繁に起こるものではないらしいんです。
もちろん、取り返しのつかない致命的な失敗がないわけではありません。
それは絶対に避けなくてはいけません。
でも、私が日頃悩んでいることのほとんどは、間違ったら終わりではないのだ!
と認識することが必要です。わかっちゃいるけど、優柔不断なんです。
大切なのは、たとえ今目の前にある橋(チャンスA)を渡るのに失敗したとしても、それで人生が終わりじゃないってこと。
その橋(チャンスA)はもう二度と現れない。これは事実です。同じチャンスは来ない。
でも、別の場所に、また違う橋(チャンスB)が現れたり、
あるいは橋じゃなくて渡し船(チャンスC)かもしれない。
形を変えて、また必ず別の機会は巡ってくる。
私のように不安の先取りをしがちな人間にとっては、
すべての選択が「ゲームオーバー級」に見えてしまうんですよね。
客観的な目で「これって本当にそんなに危険?」と問い直す、そのココロを忘れずに。
本当に恐れるべきは、渡らない人生
「石橋を叩いて渡る」は素晴らしい慣用句です。
検証して(叩く)、判断して(安全)、実行する(渡る)。完璧な流れ。
問題は私が「叩いて、叩いて、永遠に叩き続ける」人なこと。
渡って失敗するよりも、渡らない人生の方が怖くないか?
あっという間に人生の終わりが来てしまう。
なんの選択もせずなんの経験もせず、あっという間に人生の終わりが来てしまう。
その方がずっと怖い……
その人の話を聞きながら、別の意味での人生への『恐れ』を感じました。
怖い怖い。
これからは「叩いて渡る」人になる練習を日々の小さなことからしていきます。
大事なのは、決断は失敗前提ではないということ。
「この橋を渡れる」と判断したから渡るのです。
最初から「どうせダメかも」では、渡る前から負けています。
そういえば最近、営業でもちょっと慎重になりすぎていた自分がいます。
そこもひとつの渡る練習です。失敗のリスクも極めて小さい。
やってみましょう。
振り返れば、自分の人生思いもしなかった『渡し船』との出会いも多かったなあ。
とそんなことも思いました。