まぎれもない、純度100%の雑談回。
思いつくまま、書きます。テーマは、子どものころ好きだったこと。
一人遊びのプロ
基本的にインドア派。
近所の同年代の子とうまく遊べない子供でした。
元気のよい子供が怖かったです。
遊んでいる子たちの近くを通るのも、こそこそと。
引っ込み思案、人見知りというには、ちょっと過剰すぎるくらい、
とことん人と一緒に遊べない子供でした。
で、何をしていたかというと、一人遊びです。
一人でおままごと。一人でお人形遊び。
聞くところによると、他の子が「一緒にあーそぼ」と来ると、
私は泣き叫んでいたそうです。
そのときの感情を、うっすらと覚えています。
自分の好きな設定で、好きなように遊びたいという気持ち。
おままごとやお人形遊びにある「役」や「物語」を共有できなかった
(したくなかった)のです。
わがままというか、独占欲が強いというか、こだわりが強いというか。
いまもその名残はあるなと思います。
世界観は一人で作り上げたい、という感覚。
広がりづらい、小さくまとまってしまう、同じようなパターンになる、
という弊害があるという自覚はあるのですが……
今は、幼少期より少しだけ融通がきくようになっているかな、とは思います。
とりあえず最後まで完結させて、そこから人の力を借りる、というように。
一度は一人で完成させたいというわがままはまだ残っています。
自由に「漫画家」になれた子供のころ
一人遊びの中でも、お絵描きはずっと好きでした。
小学校に上がると少女漫画を模写をすることが多くなり、いっぱしの
漫画家気取りでした。同級生に「うまいねー」なんて言われると鼻高々。
でも、右向き(紙の上の人物が向かって右を向いている顔)が描けませんでした;。
右利き特有なのかわかりませんが、右向きはとても難しかったです。
ですので、私の書く人物は、常に正面か、斜め左向きか、左真横顔。
別に漫画家になろうというわけでもないので、右向きが描けなくても問題なし。
ひたすら得意な(描きやすい)向き、描きやすいポーズばかり描くのです。
頭の中で空想のストーリーを作り、漫画にする。
きちんと漫画を描こうと思ったら、右向きを避けて通れないのはもちろん、
コマ割りを考えたり、背景も描く必要があります。
そこで、そういう難しいことは、省略。
頭の中で物語を思い描き、その一場面だけを切り取り、しかも人物だけを描く。
また別の場面の人物だけを書く。
紙の上には表現されていないけれど、私の頭の中では、主人公たちが、
背景のある舞台で生き生きと動き回っている世界があるのです。
他人から見ると、ただ何パターンかの人物イラストがあるだけ。
(しかも、人物たちは絶対に右は向かないという)
漫画としては成立していないです。
それが、私の頭の中では、プロの漫画家と同じような作品として見えている。
できないことは想像、空想、妄想で補って、漫画を成立させているのです。
誰の許可を得なくても、誰に評価を受けなくても、子どもの頃の私は
「漫画家」になることとができました。
そして、自分の描く絵が好きで、うまいなーと思っていました。
誰にも侵されない、絶対的な自分の世界
誰のためでもない、自分がただ好きなことって、自分だけの絶対評価で
どこまでも楽しめる自由さがあります。
今できることだけで世界を広げて、自分だけで楽しめる。
誰かの評価に一切影響されることのない楽しみ。
自分で自分にいいねーうまいねーと本気で言えて、
誇らしさを感じられて、没頭できる。
自分で自分の機嫌を取るというのは、圧倒的な自己満足の世界を持つという
ことなのかもしれません。
大人になって、そういう絶対的な自分の世界をなくしているなと思います。
絵を描くことは、たぶん今でも好きです。
子どものころのように、無目的で、その行為そのものに没頭して楽しむ
ことがなくなってしまっているだけで。
なんの目的もなく、描くために描く。それをしてみたいなと。
ちなみに、同じ絵でも、風景画は超がつくくらい苦手でした。
絵の具と画板をもっての写生大会。気持ちが重かったです。
特に絵の具がうまくつかえず、鉛筆画まではまあまあ良かったんだけど、
色を付けた途端画用紙の上の世界が崩壊していました。
一言で絵が好きといっても、いろいろですよね。
また、イラストや漫画を描こうかな。
あ、もちろん今でも、右向きの人物は描けません!
【編集後記】
朝、畑をぶらぶら。
花桃が満開で、すでに葉も出始めていました。
次は、果樹を採るほうの桃が開花していきます。
梅、桜、桃、と順番に楽しめることが贅沢なことです。