『便りの無いのは良い便り』だが、良い”頼り”はあった方が良い

上手に人を頼る ガス抜きができる関係 小さく頼る お互い様 メンタル
友人からの「良い便り」も、「頼りの便り」も、どちらも私は待っています。

タイトルは誤字ではありません。『便り』ではなく『頼り』。
元気に暮らしているとき、平穏な時は、連絡をあまりしないもの。
では、ちょっと平穏ではないときはどうでしょうか?
そんなときは、便り、ならぬ”頼り”がある関係が築けていたらいいなというお話です。

悪い便りはないほうが良いのか?

「便りの無いのは良い便り」
元気で暮らしている証として、便りがないのは良いことです。
元気でやっていますという良い知らせがあるのも嬉しいものですが。

では、悪い便りはないほうがよいのでしょうか?

便りを受ける立場として考えると、
大切な人のバッドなニュースが、こないで欲しいとは私は思いません。
といっても、人のバッドニュースを聞きたいという悪趣味があるわけ
ではありません。

がまんしてがまんして。
一人で抱え込んで、爆発寸前。

というところまで、『悪い便り』を抱えないでいられる関係でありたいな
と思うのです。お互いに困った時に小さく『頼る』ことができる関係。

ガス抜きという言い方もしますが、
ぎりぎりまで行く前に話せる相手がいるのといないのとでは
生きやすさが違うなと感じます。

だから、良い便りでなくても話せる、
むしろ良い便りでないことほど、
小出しで伝えられたらいいなと思います。

良い『頼り』を実践するは難し

では、私は小さく頼ることができているか。
これがなかなか難しい。
頼ることで相手の負担になってしまってはいけない、
と思うからです。

自分がちょっと弱っているときというのは、
自分自身の心身のスタミナがなくなっています。
ストレス耐性もなくなっています。
人が自分のことをどう受け止めるか、
客観的な判断ができません。
自分に起きた出来事に対する評価も過大になっていきます。
だから底なし沼にはまるように、
誰もこんな話は聞きたくないだろう、迷惑だろう、
と思えてしまうものです。

でも、実際はそんなに単純なものでもないのです。
人は誰かの力になれたら嬉しいと思うもの。
自分が少し弱っているときでも、誰かの助けになることで
自分自身が救われることがあります。

100%元気で満たされている人が困っている人を助ける・支える。
人間関係という、このような一方的な関係ではありません。
(そもそも100%満たされている人がいないとも言える)

50%元気な人が、30%元気な人の支えになることで、
50%の人も30%の人もお互いに80%になる。
そういうことがあります。
両者が反対の立場になったときも、同じです。
30%の人が50%の人を支えられないかというと、
そんなことはないと私は思います。
もちろん、程度により限界はありますが。

事実、自分が少しふさぎこんでいるとき、
近くの人が自分の何気ない一言で楽しそうに笑ってくれたことで、
自分が少し救われ、浮上したという経験はたくさんあります。

小さく頼ろう、頼られよう

頼り頼られ、お互いに小さくガス抜きをできる関係。
それは多くは必要ありません。1人、2人いたら十分です。

こういう関係は、バランスが大事だなと思います。
一方からの『よろしくない便り(頼り)』がほとんど、
という関係は長くは続きません。
頼りがエスカレートしてしまうことも、良い関係とは言えません。
絶対に大きく頼ってはいけないということではなく、
お互いのバランスかなと思います。
常に一方が頼りきり、一方の便りが大きくなっていく。
そういう甘えにならないように気を付けなくてはなりません。

小さく頼るというのは、
言い方を変えれば大きく頼らないということ。
あるいはまったく頼らないことをしない、ということ。
ゼロか百か。白か黒か。
ではなく、いい塩梅に頼る。

実は、しっかりと自立して生きていないと、
程よい頼りはできないのだと気付きます。

そこまでまだ人間ができていない私ではありますが、
行き過ぎたり引きすぎたりしながら、
良い”頼り”ができるようになっていきたいです。

 

【編集後記】
5月申告準備も最終コーナーを回ります。
ゴールテープが見えて気が緩み見落としが出ないよう、
最後まで落ち着いてチェックしていきます。

通勤途中の田んぼに毎日『田植え済』が増えていき、
その景色の変化が小さな楽しみになっています。

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