面倒くさい。億劫だな。腰が重い。
のっけから、どんよりとした言葉でごめんなさい。
そういう、後回ししたくなる気持ちを乗り越えるのは、愛だなと思ったお話。
面倒くさいの分別
新しいことを始めるにせよ、
日常の雑務(好きじゃない言葉)にせよ、
仕事の日次・月次業務にせよ、
手を付けなければいけないことに対して、重い腰があがらない。
よくあります。わりと強力な私の「面倒くさい」。
根本的にどうしたら乗り越えられるのかなと常々考えています。
そもそも、その「面倒くさいこと」は、
やる必要があるのか?本当にやりたいのか?
その分別をする必要があると思いました。
面倒くさいと思う心は、自分の本心のあらわれかもしれない。
本当はやる必要がないのに
・見栄や世間体で
・自意識過剰で
・慣習で
・惰性で
・上からの指示で
やらなくてはならない、と自分で思い込んでいる。
でも内心(本能的に)それは必要ないと思っている。
価値観に沿わない、やりたくない。
だから、腰がずしりと重くなる。
ただテクニックで面倒くさいを解決するだけではなく、
面倒くさいと思うその奥の本心を見つめてみて、
「面倒くさいけど、やれるようにする」か「やらない」かを
自分の意思で選択していくべきかなと思います。
これはただの怠け者の言い訳、屁理屈でしょうか?
有限の時間を面倒くさいの解決に使い過ぎない
言い訳、屁理屈だとしても、限りある人生の時間を、
面倒くさいなあ、でもやらなくちゃ、という気持ちで
過ごす時間をなるべく少なくしたいものです。
もちろん、やりたいこと(やり始めたら夢中になって面白いこと)でも、
始めは億劫になってしまう、ということもあります。
それを行動に移せるようにする、自分ならではのテクニックやコツを
見つけるのは大事です。
理想としては、
(やりたいことで)億劫にならずすぐに動き出せること。
(やりたいことで)はじめは億劫だが、動き出せる仕組みをつくること。
この二つで生きられたらなと思います。
とはいえ、社会の中で生きていくと、そうもいかないのも事実。
でも、本心でやりたいこと、情熱をもって取り組めることを人生の中で
多くしていく意識で生きることは大切だなと思います。
やりたくない・面倒くさいこともあって仕方ない。
決まりだから、慣習だから仕方がない。
として減らすことをしなければ、むしろ反対に”それ”は増えていきます。
ですので、全部なくせないまでも、なくす試みはしてみよう、と。
1個でも減らせたら、そこに時間と気持ちの余裕ができます。
案外、お試しでなくしてみたら大丈夫だったということもあるので。
また、環境を変えれば、なくなるということもあります。
面倒くさいを超える愛
最後に、なにやら壮大なタイトルが来ました。
少し前に、ちょっと手間のかかる資料作りをしました。
こみいった案件について、対処方法などを調べて提案するものです。
まあ、場合によっては「面倒くさい」となる仕事です。
しかし、時間をとって、私はこつこつと資料をつくったわけです。
(正直に言うと、すぐに動けたわけではなくて、やはりはじめは
億劫だなあとしてしばらく手を付けずにいました……はい)
なぜできたかというと、そこに愛があったからです。
相手への愛、この資料を渡す相手の「困った」「わからない」
を解決したい、役に立ちたいという思いが強かったから。
もちろん仕事なので、最終的にはやることにはなるのですが、
愛がなければ、重い腰が上がるのは遅くなってしまいます。
面倒だけどいいものをつくりたい!と前のめりに動きだして
最後までやり切れるそのエネルギーの源泉は、本当にシンプルです。
この人のためにと思えるかどうか。愛があるかどうか。
当たり前すぎる答えですが。
同じ仕事でも、誰のために、何のために、という相手・目的が変われば、
「やりたいこと」にも「やりたくないこと」にもなりえます。
取り組む物事の難易度や内容ではないんですよね。
腰が重くなる原因は。
だから、誰と仕事をするか、誰のための仕事か、日々を誰と一緒に過ごすか
それがとても大切になります。
この人のためにと思って生きられたら、生きられる時間が増えたら、
なにより自分自身の人生の充実度が上がります。
お互いにこの人のためにと愛情ある関係を広げていけたらと思います。
そして、自分への愛もないと、ただただシンプルに自分のために物事に
熱中することもできないです。人にも、自分にも、愛ですね。
【編集後記】
今日は新しい資料での面談の日。
試しに6種類ほど作って、中の2つが有効に使えたかなと思います。
打率としては悪くない!