期待に応えたい、という気持ちは大なり小なり持つものかと思います。
しかし、期待に応えることが自分の行動指針のすべてになってしまうと、生きることが難しくなります。
いかにして期待に応えないように生きるか、私は現在進行形で鍛錬中です。
期待という足かせ
小さいころから、周囲の人の期待に応えたいという思いが強かったです。
どういうキャラクターが期待されているのか。
どういう言動が求められているのか。
どういう自分でいたら、相手が喜ぶのか。
意識的にも、無意識的にも、それが行動指針になっていました。
もちろん、100%その期待に応えられたわけではないのですが。
相手が喜んでくれると、期待に応えなければという思いに拍車がかかります。
自分の存在意義になってしまうという、怖さ。
自分の意思と、相手の意思(期待)の線引きが曖昧になり、
自分が本当はなにを好きなのか、何を嫌いなのか、わからなくなる。
その行動指針は、大人になり、仕事をするうえでも足かせになっています。
仕事となると、期待の対価が明確にあるから、余計に縛られてしまう。
受け身だと期待にとらわれてしまう
八方美人。どころか、百方美人。
いつも、目の前の人、クライアントの期待に応えることに奔走しています。
それは、相手にとっても不幸ではないかと思います。
すべての要望に応える能力はないからです。
できます、やります、期待にお応えします。
と頑張っても、できるはずがありません。
怖いなと思っても、相手の期待を基準にする受け身をやめて、
自分が好きなこと、自分ができるのか、提供したいことを、自分から発信していく。
そのうえで、依頼をしてもらう。
もしも、自分発信が誰にも求められなかったら……
求められるレベルまで磨こう。
あるいは、自分がこういう人に、こういうものを届けたいというものを
もっと深堀していく。
相手基準の頑張りではなく、自分基準のその頑張り。
それなら、きっと苦しくないだろうな、と。
ユアペースではなく、マイペース。
会社に所属して仕事をしていると
『自分から発信して仕事を依頼してもらう』はできないですが……。
相手の期待はほとんど幻想(自分の考え方の癖が生み出した幻想)。
ということで、必要十分な仕事ができたらOKと割り切るのが大事かなと。
それが私にとってはなかなか難しく、やはり要鍛錬です。
これから出会う人の期待に応える生き方
もうひとつ。
期待に応えるという足かせを外すために大事にしていること。
それは、目の前の人のために頑張らないということ。
人は自分のためだけに頑張れないです。
なにか大きな試練が目の前にあらわれたとき、自分のためだけだったら、
自分が諦めればそれでOK、やーめた、とできます。
ところが、自分以外の誰かのためにと思うと、簡単に諦めないです。
ただ、その”誰か”が、目の前の人になると、私は自分の軸がぶれ、
自分を犠牲にして頑張るというものになってしまいます。
頑張る対象となる「誰」の存在が近すぎると、相手ペースになってしまい、
振り回されてしまいます。
(相手は自分が思うほど期待はしていない、というのはわかっていても……)
私は、『顔の見えない誰か』のためになら、生きられると思います。
目の前の誰かではなく、まだ出会っていない誰かのためです。
遠い先に自分の目標と持ち、自分の価値観をしっかりと作って、
その遠い先にいる誰か、まだ出会っていない、自分が貢献できる誰か。
たった一人、自分を待っている人がいる。
それをイメージすると、自分の軸をブラさず、自分のペースで頑張れる。
とても抽象的な話ですが、そういう心持ちでいつでもいられるように、
引き続き鍛錬していきます。
【編集後記】
今日はぐっすり、寝すぎました。
よく寝る私を見て、友人が喜んでくれたのでよしとする。
身体にとってベストの睡眠時間て、年齢とともに変わりますよね。
いまのベストはどれくらいなのだろうか。