変化の中には、良い変化もあれば悪い変化もある。
良いも悪いもない変化もある。
しかたのない変化については、悲しんではいけないなと思ったお話。
浦島太郎
助けた亀に連れられて竜宮城へ招待された浦島太郎は、
地上に戻ってきたときには長い年月が経っていて、
自分の家族も、家もなくなっていました。
浦島太郎ほどでなくても、一定の年月が経つと、
人も環境も変わります。自分も変わっています。
慣れ親しんだ場所でも、久しぶりに戻ってみると
あれ、ナンカチガウ……と違和感を感じることがあります。
良い悪いではなく、時の経過による変化により違和感が生まれます。
どちらか一方だけが変化していることもありますが、
両方が変わっていることが多いのではないでしょうか。
私は東京生まれの東京育ち(20代後半まで)なのですが、
ここ10年近く東京に帰っていません。
特に帰る用事がなかっただけなのですが、気付けば10数年という感じです。
その10数年前に帰った時、たった一泊二日でかなり疲れてしまい、
東京には三日も住めないなと思ったのを覚えています。
そのときは東京駅近くのホテルに泊まり、用事を済ませて帰っただけなのですが、
人の多さ、行きかう人のテンポ、景色から目に入る情報の多さ、いっさいがっさい、
合わなくなってしまっていました。
これは私が岡山という場所に馴染んでいる(変化した)からです。
もちろん東京も変わっていますが、変化の度合いは私のほうが大きいです。
これは良いも悪いもなく、そういうものだと受け入れられる変化です。
岡山に来た当初は、岡山に長くは住めない東京の方がいいと思ったので、
まさに住めば都そのものですね。
2パターンの「変わったね」
ところで、変化をしていても合わなくならない、というパターンも
あるなと思います。「変わったね」にも2種類あります。
「変わってしまったね……」
と残念に思うパターン。
もうひとつは、”合う”という点では変化がなく、
「変わったねー!(なにがあったのか、話聞かせてよ)」
と相手の変化した部分にプラスの関心と刺激と受けるパターン。
できれば、このようにお互いに成長や進化、変化を喜び、
関係も良い方向へ変化したいもの。
しかし、理想のパターンばかりではありません。
最初の合わなくなってしまった……(残念)のパターンもあります。
その残念パターンであっても、悲しむことではないと思います。
悲しまないようにしたいなと思います。
道は分かれても、健闘を祈り合ってそれぞれ走る
人生において、大切に思う人や環境に出会ったとき、大切に思うがゆえに
それを一生ものにしたいと思ってしまいます。
少し離れていても、いつでもまた同じ関係に戻れると思いたいものです。
けれど、そうならないことも起きてしまいます。
どちらがどう変わったのか。
それは元に戻せないのか。
自分が悪かったのか。
そう思い悩んで修復しようとしても、変化したものが戻ることは
ほどんどないように思います。
嫌いになったわけでも、憎しみ合っているわけでもないけれど、
以前と同じように共に歩めないことはあります。
過去の思い出の回顧や懐かしさだけでは、共には歩めないです。
共に歩むには、今を共有できることと、未来へのイメージの共有が
必要だなと思います。
それで道が分かれてしまっても、悲しいことではないと思います。
進むスピードが違ってしまったから、高速と一般道にわかれましょう、
という別れもあります。
目的地の変更があることも。それも悲しむことではなく、お互いに
それぞれの目的地へ進む旅の検討を祈りあって、手を振って別れる。
お互いに大事な仲間であることに変わりがなければ、悲しくないです。
自分の変化を責めることもなく、それぞれの道を進めます。
そうありたいなと思います。
【編集後記】
昨日5月末日をもって、勤めていた事務所を退職しました。
新しい生活パターン、新しい生き方を、ぼちぼち構築して
いきたいと思います。